犬追物

犬追物(いぬおうもの)は鎌倉時代から始まったとされる日本の弓術の作法の一つ。流鏑馬、笠懸と共に騎射三物の一つに数えられる。

競技場として40間四方の平坦なスペースを準備し、そこを「馬場」とする。その馬場に36騎の騎手(12騎を1組とする)、2騎の検分者(「検見」といわれる)、2騎の喚次、150匹の犬を投入し、所定の時間内に騎手が何匹犬を射たかで争う。

しかし実際に犬を打ち抜くことは無く、「犬射引目」(いぬうちひきめ)という特殊な鏑矢を使用した。ただ単に犬に矢を当てればいいと言う物ではなく、相撲の決め手のように打ち方や命中した場所によっていくつもの技が存在した。この判定のために検見や喚次が必要となった。

歴史

犬追物馬場鎌倉時代に武士が平時の武芸の鍛錬のために始めた物と言われる。当時は獣類を馬で追い騎射をする競技を総称して「追物射」(おうものい)と言い、牛を追う「牛追物」などもあったが、犬を追う「犬追物」だけが残った。

北条氏得宗家(宗家)最後の当主北条高時が闘犬や犬追物にはまって政治を省みなくなり、鎌倉幕府滅亡の原因となったとする伝説がある。

戦国時代に入ると、作法を保持していた有力な守護大名・守護代が次々と滅び、江戸時代まで作法を継承できたのは島津氏と小笠原氏だけとなった。

その後、薩摩藩では一時生類憐みの令による中断を除き、世子の元服の時など慶事のおりに開催していた。

薩摩の島津家では、元和八年(1622)に再興されたが、熊本藩の場合は、随分遅れて、天明四年(1784)閏一月、川尻の大慈寺河原で行われたのが復興の始まりとされている。重賢公の御代に創設された藩校時習館には、武芸稽古所として、東・西射があったが、教官は犬追物師二人・射術師五人。記録によれば、天明四年二月には大慈寺河原で騎射の稽古をしていたが、横手手永椎田村(現熊本市八幡町・川尻町)のうち、四反くらいの土地を借り、垣周りなど整備して、毎月三度ずつ二の日に稽古することを境野嘉十郎・斉藤権之助に通達しており、七月には稽古の場合の服装として、行縢(むかばき)・烏帽子・素袍(すおう・綿入れ)を着ること、十二月には、射礼稽古の名前を尋ね、知行取り以下、浪人・陪臣・一領一疋ども、四十七人とある。

熊本城下元竹小屋跡に犬追物稽古場ができるのは、寛政四年(1792)である(以上川口恭子「重賢公逸話」熊日新書より抜粋)。

また、島津光久が徳川家綱のために興行したこともある。 明治維新の後幕藩体制が崩壊、幕府、薩摩藩という庇護者を失った犬追物は技術保持が困難となった。当時日本の伝統文化を軽視する風潮があったことにくわえ、広大なスペースと大勢の競技者が必要な犬追物は、興行にも、その稽古にも多大な費用を必要としたからである。

明治14年、島津忠義は明治天皇の前で犬追物の天覧を行ったが、これが史上最後の犬追物興行となった。現在、島津家関係の史料(国宝「島津家文書」など)や小笠原流の資料により作法は伝わっているが、実演の方は動物愛護との絡みもあり、今後も復興されるみこみはない。

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